2011年4月12日
先週の木曜日、金曜日と日曜日に、私たちは、宮城県石巻市と女川町の被災者の方々に、10,448足の靴下をお届けしました。下図は、佐野市の私たちの拠点からの経路図です。東北高速道路を使って、349キロ(217マイル)あります。
私たちの 活動が祝福されている証拠として、あまり使用されない4駆の大型ワゴン車を持っておられるご家族が見つかり、そのワゴン車を1ヶ月間安く貸してもらえることになりました。この新しいワゴン車だと、一度に6,000足もの靴下を運ぶことができます。4駆の機能とハイクリアランスは、要望が最も大きい被災地域に奥深く入っていくのにうってつけです。最初の配達に出かける前のワゴン車の写真です。
祝福された活動だと書きましたが、その理由は、以下の写真からお分かりいただけるように、ワゴン車が持つ頑丈なオフロードの機能を必要とする訪問に出発する直前に、ワゴン車を受け取ったからです。これまで使っていた車では、今回の訪問で私たちを必要とされている避難所の一部にたどり着くことはできなかったと思います。なにか神秘的なことが起こっています。泥まみれの川と化した町の通りを、このワゴン車が突き進んでいくのを眺めながら、私たちは、そう感じました。私たちが、続行できるのは、ひとえに、良いタイミングで届いたこのワゴン車が持つ機能のおかげだからです。
おまけにワゴン車も、役に立ちたがっているように見えました。ワゴン車の持ち主のご家族は、オフロードの性能を試すことなく、ショッピングセンターや映画館に行くときのために、きれいにしておられます。ボランティアと靴下で満載し、津波による泥と、地震による破壊に向かって、ワゴン車は、エンジンをうならせ、このために作られたんだ、さあ行こう!といわんばかりです。出発です。道中の様子です。
他の避難所で見かけたのと同様に、いくつかの石巻市の避難所では、寄付された使用済みの衣類が山積みになってあふれていました。でも靴下はありません。最初に訪問した避難所にあった、もらい手のない衣服をご覧ください。にもかかわらず、被災者の方々は、私たちから靴下と励ましの手紙を受け取ろうと熱心に集まってこられます。
大規模な避難所の中の様子
人の心に触れる瞬間でいっぱいです
木曜日の夜、配り終えた後、私たちは、石巻市の赤十字病院のそばの敷地にワゴン車を泊めました。車が数台しかなかったので、駐車するスペースを見つけるのは難しくありませんでした。夜11時33分、マグニチュード7.1の強い地震が襲い、私たちを揺さぶり起こしました。ワゴン車は踊り跳ね、まわりの車も、まるで生演奏に誘われてダンスフロアに躍り出たように、みんな踊り跳ねています。私に同行したボランティアのあすかさんは、今ではすっかり聞き慣れてしまった地面が揺れる音と遠方からのサイレンに、悲鳴を上げました。やっと揺れが止まると、スピーカーからまたも津波警報。「まただ」と思い、それから、1時間も離れていない海岸近くに運転してきたことを思い出して、別な意味で身震いしました。道路は、さらなる被害者の襲来に備えて手伝おうと、病院に急行するボランティアの車でいっぱいでした。空っぽだった駐車場は、みるみるうちに満杯となりました。私たちが病院内に入ると、次のような光景が待ち受けていました。あすかさんの携帯電話のカメラで素早く撮ったものです。
複数の医師、看護師、ボランティアが、多数の患者を受け入れる外傷センターを約10分で編成、救急車で搬送される被害者に対応するために待機しています。
津波で流される、あるいは負傷する可能性のある人の大半は、もう既に死亡している、あるいは治療を受けているという悲惨な理由で、万全の準備にもかかわらず、その夜多くの被害者を予想してはいませんでした。津波危険地帯に入る地域は、3月11日に壊滅してしまい、別の津波で壊されるものは、もうあまり残ってないのです。どちらにしても、4月7日の余震に続く津波は大きなものではありませんでした。これら2つの要因のため、石巻市の赤十字病院にとって比較的静かな夜でした。これには全員が感謝しました。
しかし、余震により、またもや一部区域への電気と水の供給が破壊され、いくつかの避難所では、被災者の方々が避難所を離れなければなりませんでした。そのことを、私たちは、翌朝、最初に訪問した避難所でそこの責任者の方から、状況を説明してもらって知りました。
その責任者の方は、あまりにも多くの被災者の方が、路上や壊れた家で生活されているので、自然に人々が集まる場所の前にワゴン車を泊めて、靴下の配給を知らせる手書きの看板を出してはどうか、と提案されました。さっそくボール紙と避難所からのマーカーで、看板を作り、物資を積んだ自衛隊のトラックが停車する廃駅となった駅の前にワゴン車を泊めました。
周りの「近所」、実際は数少ない、立っている建物の後ろに、材木やぐちゃぐちゃになった金属が雑然と山積みされたものの集まりなのですが、そこから、人々が次々とやって来て、靴下と励ましの手紙を受け取るために、きちんと列を作って並ばれました。
私たちは、一人2足の靴下までと数を制限しなければなりませんでしたが、それでも、この一箇所で何百足もの靴下を配りました。
愛鳥を手にしたこの男の人は、靴下が要る理由を見せてくれました。
集まった人たちのほぼ半分に配り終わったとき、顔に擦り傷や切り傷ができた口数の少ない少年が、最前列に進み出ました。その子は、私の腕をとんとんとたたくと、「ワゴン車の隣にちょっと座っていてもいい?なにもしないから。ただ隣に座っていたいんだ」と言いました。私は「もちろん」と答えました。その子はオレンジ色の箱を寄せて、それ以上なにも言わないで、頭を垂れて座っていました。みんなが居なくなるまで、私たちは靴下を配り続けました。
まだ、その少年は座っています。「靴下はいりませんか?」と私が尋ねると、「ください」と答えて、彼に向かって開いた袋から、最も控えめな選択である、白色の無地の靴下を2足取りました。「君の家族には?」と私が申し出ると、彼は首を横に振って泣き出しました。どうしてその少年がもっと靴下を必要としないのか、私には想像がつきました。私は、彼に話しかけましたが、彼は話したくありませんでした。僕の写真を撮ってもいいけど、顔は写さないで、とその少年は言いました。私は、彼の家族に何が起こったのか、どうして彼がワゴン車のそばに座りたかったか、知ることはありませんでした。もしかすると、彼のお父さんが、同じようなワゴン車を持っていたのかもしれません。もしかすると、彼のお母さんが、同じようなワゴン車に彼や兄弟を乗せて町中を運転していたのかもしれません。知る由もありませんでした。そのうちに、私たちはそこを去らなければなりませんでした。その少年について残されたのは、私の記憶にあるその少年の震えた声と、撮るのを許してくれた写真だけです。
その日はまだまだ続きます。私たちは、自衛隊や他の供給源から物資を受け取る人の群れを探して市内を運転して回り、見つかるとその近くに泊めて、看板を出しました。
私たちは、石巻市の被害は甚大だけど、近隣の女川町はもっと悲惨だということを人々から聞いていました。ある女の人が私たちに言いました。「私の故郷は女川町よ。私にはもう故郷がない」女川に行かなければ。途中で、石巻市に津波が入ってきた石巻湾を通りました。
そこで、私たちは、海藻を収穫して、おにぎりや他の日本食に使われる海苔に加工する事業を営んでおられるほんださん一家に会いました。その地域の家屋は、家の中が流されてしまいました。ほんださんの奥さんは、長年、海の近くで暮らしてきて、地震の後には高波を想定する習慣がついていたので、一番大切な持ち物を手にして、すぐに高台に逃げたのだと、話してくれました。
でも、ほんださんは、持ち船のうちで一番高価な船を救おうと、素早く決断しました。高台を元の方向に走って降りて、船に飛び乗り、以前の高波で被害が最も少なかったことに気づいていた石巻湾の内側に、津波より速く、逃げ切ろうとしました。
津波から逃れて、安全な内湾に向かって全速力で船を走らせていると、津波が背後から押し寄せてきた、と説明してくれるほんださんの話にくぎづけになりました。津波に追いつかれたけど、ほんださんは角度とスピードのおかげで、「うちの大型船が今までに走ったことがないようなスピードで」津波の正面を波乗りして、守ってくれる入り江まで操縦することができました。その入り江で船は猛烈にもまれましたが、ほとんど被害を受けませんでした。ほんださんの残りの持ち船は、自宅、数台の車と共に、破壊されました。近所の船もすべて破壊されました。でも、ほんださんの素早い行動と地元に関する知識のおかげで、ほんださんの大切な船は救われました。ほんださんがその話をされています。
そして、逃げられなかった船の残骸です。
話の終わりに、ほんださん夫妻は、私たちからの靴下を受け取られ、お返しとして、私たちに海苔をくださいました。ほんださん夫妻は、女川に気をつけて行きなさいよ、と言われましたが、あそこは何にも残っていないよ、とも言われました。破壊された自宅の前で、ほんださん夫妻とあすかさん。
ここから、私たちの旅は、いままで経験したことがない激しさに突入しました。女川の被害は充分聞いていたので、悲惨な光景を覚悟していましたが、破壊の規模は想像を絶するものでした。狂いに狂った海水が、ドレスデン爆撃、あるいは広島の原子爆弾投下と同規模の打撃を負わせることに、私はショックを受けました。女川は、文字通り翻訳すると「Lady River」ですが、今日の女川は、ドレスデンと広島の大惨事の後の光景に見えました。
女川町は、太平洋沿いの谷間に位置しており、大津波には特に無防備です。太平洋から打ち寄せた大津波は、分散する行き場がないまま、谷壁を乗り越え、凶暴な海水が入った巨大なつぼを形成し、情け容赦なくぐるぐると渦を巻きました。海水がはけたときは、形を留めているもの、生きているものはほとんど何もありませんでした。
次の写真は、私たちがこの海辺の集落に入って行った順番に並べてあります。悲惨な状況の女川に車で入って行くにつれて、私たちの心にこみ上がってくる悲しみを、皆さんも感じてもらえると思います。
友人、家族、そして持ち物を未だに探しておられます。
谷間をさらに奥深く進みました。
次の写真の左上の病院まで水が押し寄せました。病院の建物に白い車が引っかかっているのが見えます。
病院まで車で上がり、谷間の被害を見下ろしたところ。見晴らしの利く地点から見ると、被害の凄まじさがより明らかです。
これほど被災した町に配るだけ十分な靴下が残っていませんでした。それで、残りの靴下は、石巻市に持って帰って避難所で配ることにして、女川の避難所には、できるだけ早急に、日を改めて、再度出向くことにしました。
女川町からの帰り道は、入ってきた道とは別の道を使わないといけませんでした。入ってきた道で、自衛隊員が数体の遺体を発見したので、その道を通行止めにして回収作業を行ったからです。隊員は婉曲な言い方はもはやしません。はっきりと言います。「ただいまこの道は通行できません。この道で遺体が見つかり、まだ回収し終えていません。あちらの道を使ってください」別な道を通った私たちは、壊滅した状況を異なる視点から見ることになりました。
隊員がまだ遺体の捜索を行っています。
私たちは、より多くの助けと共にすぐに戻ってくるぞと心に決めて、金曜日の深夜、佐野市の拠点に戻りました。私たちの拠点では、ボランティアチームが土曜日に長時間働いて、翌日の次の配達の準備を行いました。女川への再度の訪問に加わることのできる大人のボランティアがいなかったので、あすかさんの10歳の娘さんのしえなちゃんが手伝うと言ってくれました。しえなちゃんに怖くないの、と尋ねたところ、怖いけど、これまでの私たちの話を聞いて、手伝いたい、と言いました。5,000足を超える靴下を積み込んで、私たち3人は、日曜日の朝5時に、石巻市と女川町に向けて、佐野市を出発しました。
避難所でワゴン車を配給窓口として使いました。
通りにて
自衛隊のテントにて
午後から、私たちは、女川用と念入りに書かれた積荷を持って、この世で最も悲しい道を通って、再び海辺の谷に入りました。またもや、高い方の道を通らなければなりませんでした。下の道ではまだ遺体の回収が行われています。道の向こう側に病院が見えます。
谷の高いところで隊員らが作業を行っています。
私たちは、病院を通り過ぎて、私たちの地図では町の主な避難所だと示されたところまで運転しました。道路のほとんどが破壊して、目印がないので、今日では、女川町内での行き方を見つけるのは困難です。行き方の説明はこんな具合です。「瓦礫の山を通り過ぎて、くしゃくしゃになった3台の車のところで左に曲がって、壊れかけた橋の下を急いで通る。そしたら、ぺちゃんこになった屋根の向こう側に倒壊した塀が見えるからね。その反対側よ」私たちは、きみつかさんに出会うまで、迷っていました。きみつかさんは、お母さんの家で思い出の品を捜しておられました。きみつかさんと話をすると、彼女のお母さんは、私たちが行こうとしている避難所におられることが分かりました。ちょうど訪問するところだったので、そこまで案内しましょう、と言ってくださいました。
途中、きみつかさんは、きみつかさんのお母さんが、近くの山腹に走ってあがって、間一髪で津波を逃れたことを話してくれました。後で、きみつかさんはお母さんと瓦礫と化した家に戻り、その中から、必要な保険の書類が見つかった運のよさに驚かれました。近所の人がみんな生き残ったのではないと、悲しそうに言われました。次の写真の家に住まわれていた夫婦は、つまずいて転んで、津波に飲み込まれました。
避難所は、正面の谷と裏の谷の間の丘に上にありました。避難所から、裏の谷を見下ろすことができます。避難所の被災者の方々は、たくましい人達で、気持ちを明るく保とうと努力されています。でも、いつもそうできるわけではありません。避難所での避難生活を1ヶ月間強いられていること、自宅を失い、人々を失い、ある女の人の言い方によれば「将来を失った」こと、から生じる精神的苦痛の限界を、私たちは、避難所の方々から感じ取りました。みなさんは靴下をとても必要とされており、1人につき2足の靴下の配給を求めて並ばれます。痛ましい眼差しを見詰めると、割り当てを強いることがとても辛いです。私も必ずしもその割り当てを守ったわけではありませんが。
津波を免れた地元の子ども達、きみつかさんのお母さんに会ったときの幸せの瞬間。
幸せは、女川では、例外であって普通のことではありません。はんざわあかねさんという、恥かしがりやの15歳の少女は、地震が襲った時、学校にいたのだと話してくれました。あかねさんと級友は、津波が、建物から水しぶきを上げて突進し、いくつかの建物を破壊し、またいくつかの建物を飲み込みながら、町の建物を破壊して突進する音を聞きました。津波がすぐに学校まで押し寄せてきました。大勢の学生が山腹へと逃れました。あかねさんもそうして生き残りました。
「友達のみきさんが、私と一緒に走って、山の上で私のそばに立って」とあかねさんが話しました。「私たちは、町全体が湖のようになったのを見ました。学校がなくなった。それでも、波は谷まで突進してきた。突然みきさんが、私の腕をつかんで、おばあちゃんが大丈夫かどうかみてこないと、と言ったので、私は、だめよ!と言ったのだけど、みきさんは聞かないで、山を走り降りると、おばあさんの家がある谷の方に走って上がって行きました。それから、みきさんも、みきさんのおばあさんも、見かけた人は誰もいません」
力仕事で生計を立ててきた、たくましい年配の男の人が、最前列になったとき、がっちりした肩幅をして、アメリカ人の農場主のような力強い握手で現れて、黙って立っていました。
「何人分ですか?」と、私は尋ねました。席をはずしている家族の分の靴下を受け取る人もいるのです。
「1人分。私の分だけ」
その男の人に私は2足の分厚い靴下を手渡して、暖かくて、気持ちよさそうな靴下ですね、と言いました。その人はうなずきました。「女性用は何人分ですか?」と私が尋ねると、
その人の空いていた方の手が、すぐさま目を覆って、すすり泣きながら、「なし、みんないなくなった」その人は、がっくり膝をつくと、悲しみに打ちひしがれて、胸に溜まっていたものを吐き出されました。恐らくこれまでにも、何度も同じようにされたのでしょう。想いを汲み取る人の列は、その男の人の後ろで、静かに、承知して、待ちました。文句を言う人は誰もいませんでした。時間をチェックする人は誰もいませんでした。強い男の人のすすり泣きが、私たちの中で響きわたる中、部屋がしいんと静かになりました。
「地震の後、私たちは家をあちこち回ってものを拾っていたんだ。別のものすごい音がして、見たら、波が建物を突き抜けて、私たちの家の方に来ていた。海が海岸線に沿ってやるのと同じように、建物を粉々にしながら」と、その人は言いました。「私たちが逃げることができる前に、波が家を襲って、他の人たちがほうり出されたように、私も波に山の上まで押し流された。家内を見つけることができなかった。水がひくと、家に帰って、台所で家内の遺体を見つけた。。。。家内は台所から出られなかった。。。料理を作ってくれた台所を。。。たくさんおいしいご飯を作ってくれた」
部屋は次の言葉を待ちました。列は、両手を顔の前で組み合わせて下を向いた、一つなぎの垂れた頭と化しました。その人は続けました。
「家内の遺体をずうっと抱いていた。家内のものをなにか、いつも身に着けておきたかった。家内の指から結婚指輪を抜いて、小指にはめてみようとしたが、私の指は太すぎた。指輪を切って、指に合うように伸ばして、裏側で、できるだけ元通りに、締め付けた」彼は手を持ち上げて、「この指には私の指輪、小指には家内の指輪をつけておくんだ。また家内に会うまで、ずっとそうしておくんだ。正直なところ、会えるのがもうすぐならいいんだが」と言って、見回しました。「こんなこと何になるんだろう。家内なしで。。。。さみしくてしかたない。。。。靴下をありがとう」
あかねさんの学校、みきさんのおばあさんの家、指輪をはめたこの男の人の家は、かつて同じ裏の谷に共存していました。私たちは、日暮れに避難所を出て、津波があの人たちをみんな捕らえて、多くの人を溺死させた裏の谷、津波による悪臭と破壊が、敢えて足を踏み入れる、か弱き生き物一人一人の心を未だにつかむ、その裏の谷に、弔問に訪れました。谷全体が死んだ魚や古い港の悪臭で漂っています。でもその臭いだけなのだろうかと、思わざるをえません。瓦礫の山は、幾重にも重なっており、まだ何千人もの方が行方不明です。
そこは日が暮れた後で長居をするところではありません。私たちは、湿っぽい悪臭を放つ空気を後に、女川を出て、長い道のりを佐野市に向けて車を走らせました。