2011年 日本の戦場

2011年5月3日

3月11日の地震により揺さぶられ、続く津波にたたきつけられ、火災により一部が炎上した、約322キロ(200マイル)の海岸線に及ぶ被災地に、Socks for Japanは、靴下と励ましの手紙を13回お届けしました。

被災地に何回も遠出することで、私は、ボランティアの人たちの最初の反応に気づきました。テレビのニュースを観たり、新聞で写真を見ているので、惨状を見る心の準備ができていると大半の人は思っています。最初の配達に出かける前は、私もそう思っていました。でも、現地の凄まじさには誰もが圧倒されます。瓦礫に囲まれ、魚の死骸、残った泥、考えてもみたくない他の不吉な源からの悪臭を遮断するために、口と鼻を覆いながら、ぺちゃんこになった車が積み重なった山と崩壊した家との間を車で通っていくことは、どんなニュース記事でも、今から体験することに対して心の準備をさせることはできません。

共通の反応は、「これは戦場だ」です。誰もがそう言います。私は4月12日の「心が沈む女川」のリポートでこう書きました。

狂いに狂った海水が、ドレスデン爆撃、あるいは広島の原子爆弾投下と同規模の打撃を負わせることに、私はショックを受けました。 女川は、文字通り翻訳すると「Lady River」ですが、今日の女川は、ドレスデンと広島の大惨事の後の光景に見えました。

今回の4ヶ所の配達で、女川だけではないことに気づきました。海岸線沿いの被害を受けた多く町は、第二次世界大戦や他の紛争の写真のように見えます。4月20日の名取市と岩沼市、4月24日と27日の石巻市、5月1日の南三陸町に配達に行った時に撮った写真のうちの32枚が、それを浮き彫りにしています。町の戦時ムードを反映させるために、写真は編集してあります。

気をしっかり持って、2011年日本の戦場を私と一緒に旅してください。 Socks for Japan が被災者の方々を支援し続ける理由がお分かりになっていただけると思います。

太平洋から陸地に入った大きく広がる平地により、津波が名取市と岩沼市の大半を一掃しました。この道を運転しながら、息をし続けるのに全体力を使いました

名取市と岩沼市の海岸沿いの町並みは、空襲を受けたように見えます

中でも、津波は石巻市の擁壁を突き破り

海岸沿いの道を根こそぎ壊して

町に向けて突進しました

そこは現在、自衛隊が毎日作業を行っています

石巻市の中心部の荒廃は、えんえんと続くように感じられます。道路は、破壊された建物の瓦礫をわきに寄せただけの通路です。金持ちも貧乏人も、津波で同等となり、大切な所有物はすべて、泥の上では等しくくずと化しました。

南三陸町では、被害は海岸線により近いところに広がっているので、家族の命を奪い、町民の生活を永久に変えてしまった海がよく見えることで、被災者を苦しめています。

主な港と周辺の繁華街は、最も大きな被害を受けました。

地震の後、職員は防災対策庁舎に駆けつけて、拡声装置で緊急警報を出しました。住民に津波警報を出している間に、津波は、予想以上の凄まじさで町を水浸しにしました。防災対策庁舎自体が押し寄せる水にのみ込まれてしまい、中で働いていた30人の職員のうち20人は、自らが警告した危険によって殺されました。町長はアンテナによじ登って助かりました。そのアンテナは、庁舎の残骸に未だ見ることができます。

自衛隊員が、廃墟と化した南三陸町のあちこちで作業を行っています。

再び石巻市、天国と地獄が2か月前に衝突したところ、

荒廃を見下ろす丘の上で桜の花に混じって、1本のプラカードが、祖国と呼ぶこの暴力的な星で、満たされることのない人類の最も哀れな希望であろうことを表しています。

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