北茨城市へ

2011年3月23日

先週から連絡を取らせて頂いていた茨城県。ここは災害が大きいにもかかわらず支援物資がなかなか行き渡らず、私たちの靴下も揃い次第欲しいとの要望を受けていました。

放射線量のチェック、ガソリンもどうにかぎりぎり行ける程の量は確保できました。

私たちが向かうのは茨城県の中でも最北端に位置する北茨城市です。
ここは特に物資が行き渡っていないと県の方がおっしゃっていました。

私、ジェイソンとボランティアのよしこさんが今回は行くことになりました。
今回彼女は放射能のことよりも被災者や被災地に会うのが心配のようでした。

Photos of the drive to Kitaibaraki

車に荷物を積み込み高速道路に入ると道はがらんとしています。

被災地に近づきます。テレビやニュースで大体のことは分かっているつもりで、心の準備は出来ているはずでしたがそうではありませんでした。

道中、会話をすることさえも出来ませんでした。破壊された町、瓦礫の山の前では泣き崩れる人々、この事実を忘れて仕事に打ち込もうとしている無表情の作業員の人々、車の中ではよしこさんのすすり泣きが聞こえるだけでした。

“悲しい姿を見せてはいけない”と自身に言い聞かせながらも、本当につらい光景でした。

Photos of damage in Kitaibaraki

私たちが市役所に着くと40人程の方が2階に非難されているということで、役所の方が他の避難所の情報を調べて下さっている間に、こちらの方たちへ靴下を届けました。

Photos of arrival at Kitaibaraki city hall

緊急性のある避難所が記された地図を持ち最初の目的地に向かいました。そこはスポーツセンターで、家を失った人の為に急遽避難所として使われている所です。
センターの中には山積みになった洋服がありましたが、靴下は一足もありませんでした。
箱をもって中に入り「新品の靴下と世界中からの皆さんへのお手紙を持ってきました」とアナウンスしました。

悲しみからさめた様に、人々は体を丸めて包まっていた毛布の中から抜け出し、一人は「私たちに?」、そしてもう一人は「やっと、靴下が来た!」と涙を浮かべみんなに大きな声で伝えていました。

最初はどういう態度をとれば良いのか分かりませんでした。この状況の中だったら、この厳しい環境をぜひ乗り越えてくださいというような深刻な表情なのか、でもこの方たちにはそのような物は無用でした。
特にこのような先の見えない長い一日を避難所で暮らす彼らが今必要としているものは、喜び、何かカラフルなもの、そして楽しむ事なのです。
勇気付ける事です。
私たちがこの靴下はどこから来たのだとか説明してると、皆さんからのかわいらしい質問がありました。「どうやったらこんなにたくさんの友達が出来るの?」「最後にこのまきこさんに会ったのはいつなの?」
このまきこさんはニュヨークに住み、私たちのサイトで翻訳のボランティアをしている人です。

「実は私は一度も彼女に会ったことがありません」 と答えると戸惑った様子のみなさん。
「私たちはこの活動を通して知り合ったのですよ」 彼らはどうか彼女に伝えて欲しいと私に頼みました。「とてもあなたの靴下が気にいった」
彼らから頼まれた通り、次の日すぐに私はまきこさんにメールで、「昨日茨城で箱から靴下を手渡す時に、何回もあなたの写真付のメッセージを見ました。もらった人はすぐにあなたの靴下を履いて手紙は大事そうにしまってました。とても感動したのでぜひあなたにもすぐに報告がしたかった。言い表せないほど本当に感謝しています」と。 すぐに彼女は返事をくれてこう言ってくれました。「なんと心温まる話でしょう。すごく感動しました。私の送った靴下をすでに履いてくれているなんてこれ以上心に響くものはありません」

被災地の人々は自分の経験を共有したく、どうやって裸足や靴下のまま津波から逃げてきたかを話してくれました。
これは私たちが靴下を集めるきっかけになったひとつです。

ある年老いた男の方は地震で崩れた家の隙間に挟まれた。そこに津波が押し寄せてきた。隙間から抜け出せずに、挟まったままこのまま死んで行くんだと。。。水はつま先、ひざ、太もも、腰そしてお腹、そして胸。「これまでだ」と思った時水が止まった。 水は緩やかに家の中流れて行った。浸水した家の中の海を、じっと見つめ呆然としそして一人っきりだった。死にはしなかった。だが生きているのかさえも分からなくなってしまった。丸二日間そのような思いでそこで過ごした。水が減っていき、服が乾ききるまで凍りつくような寒さだった。そして寒さがさらに彼を凍りつかせた。
やっと、ヘリコプターが到着し屋根の上から隙間に挟まれている彼を引き上げた。
避難所に自力でたどり着いた時は海水でずぶぬれだった。他のものはすべて流された。

そう話してくれた彼が「もし良かったら2足この靴下をもらっても良いですか?」と尋ねたので、10足でもどうぞと答えました。

ある男の人がすぐに靴下を履き、ズボンのすそをまくりあげ靴下を見せて”おしゃれでしょう”とそこにいたみんなに伝えると奥さんには”これアメリカ人から貰ったんだ。彼らは日本人じゃないんだよ。アメリカ人だよ”とも付け加えていました。

Photos of fashionable B.U.M. socks in Kitaibaraki

よしこさんは5歳のとてもかわいい「ながと」くんという男の子の靴下を選ぶのを手伝い、とても懐いていました。彼は彼が”キャンプ”をしている場所と、他の家族が寝ているところを案内してくれました。
少しして、スポーツセンター内の、動くことの出来ない人がいる場所に移り、靴下を配っていると、ながとくんがよしこさんに駆け寄り息を切らして「これ僕の最後のおいしいアメなんだけど、これあげる」といってよしこさんに手渡しました。私にはふつうのアメをくれました。永遠に食べられることの無い、ながと君に靴下を渡した日の思い出のアメを家に持って帰りました。

そのスポーツセンターの写真です。

Photos of Kitaibaraki athletic center distribution

次の訪問は大津港です。そしてさらに悲しかった。今ではもうなくなってしまった海に近い町の住民が、この避難所で生活をされていました。着いて早々、ある男性にあなたの家は壊れてしまったのですかと聞くと、「いいえ」と答え「無くなったんだよ」と。 私はすぐに謝り、何でこんな質問をしてしまったのだとすごく落ち込みました。 彼はそれに気づき、私の肩をぽんぽんと叩くと「大丈夫だよ。ただの家じゃないか。又建てれば良いんだから」と言い、横でうなずいているとてもか弱そうな小さな奥さんの方に振り向き「だろ?」と彼女に聞きました。すると何も言わずに奥さんはまた頷いていました。

この避難所では年配の女性がリーダーでした。
彼女は大きな声で何を私たちが持ってきたかを説明してくれました。「やっと靴下が来た!」とまたここでも喜んで頂けました。リーダーは箱の周りに集まってきた人の中に入り、待ちきれない人々の要望を聞いていました。誰かが「彼は青は好きじゃないんだけど」間違ってリーダに言うとリーダーは「こんな時に色のことなんて言わないで!」と泣き出してしまいました。彼はあれは間違いだったということを認め、そして他の人も頷いていました。年配の女性が燃えるような目で私の方を見たましたが、すぐに笑顔で「この人たちも列に入れてあげようよ」と言ってくれました。

私の後ろでは、二人の男性が靴下を履きながら喋っていました。「この靴下を茨城まで持ってきてくれたんだって」、もう一人の人が「茨城に!」と返事をした。後ろを振り返ると「しかも外人さんだよ」と、嬉しそうに見えました。

靴下を受け取った後、女性が三人一緒に毛布の上に座って、夢中で手紙を読んでいました。すごく嬉しそうで、お互いの顔を見ながら、自分のには何と書いてあったかなどを分かち合っていました。
私たちが見ていたのに気づき、手紙を持ち上げて「本当に嬉しいよ」と笑顔で言ってくれました。

ここが2箇所目の大津港です:

Photos of Kitaibaraki Otsu Port distribution

これが今日の報告です。
この日はイギリス、マレーシアとアメリカからの靴下と手紙でした。 

夜も更けてきました。
壊滅した町を通って行くとなぜか昼間よりも怖く感じました。夜の暗闇がこのダメージを隠してくれるんでは無いかと思っていましたが、それは違いました。不気味な静けさの港町の写真はこちらです:

Car on wall in Kitaibaraki

最初に訪れたスポーツセンターに戻り、若い市の職員と話をしました。英語でこの靴下と手紙が海外からの物だと分かりましたと言ってくれました。彼は自信たっぷりに私がこの在庫を管理しておきます。必要な人に行き渡るようにと。そして受け取る人にこれは世界中から北茨城市への心のこもった応援だと言うことも。
私に名詞を渡し、海岸沿いの岸壁に立つ赤い塔の写真を見せて、「これがこの町のシンボルなんですよ」と説明してくれた。その後にこう付け足した。「でももう無くなってしまいましたが。。。」

最後にもう一度大平さんのご家族に会いに行って来ました。そこでは3歳のこむぎちゃんが懐中電灯の明かりで絵を描いていました。

帰る時間が来ました。ここを出るとき、ながとくん、妹のこむぎちゃん、そしてもう一人の妹やつはちゃんそしてお母さんのめぐみさんが、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれました。

津波で運ばれた砂がタイヤに巻き込まれます。オレンジの街灯の明かりがここ数日の雨で出来た水溜りに反射していました。

瓦礫が道の両脇にきれいに積まれ壁のようだった。オーブンや畳、毛布に屋根、これが怒り狂った海水が襲ってきたときにこの町が耐え切れなかったと言う衝撃的な証拠です。

一刻も早くここから立ち去りたいと思った私でしたが、それと同時に、大原さんご家族や嬉しそうに手紙を読んでいた女性達、みんなに靴下を見せていた男性、そして今では無いこの町のシンボルの写真のついた名詞を持ち歩いている市役所の職員の人の顔を思い出すとすごく心が痛みました。

いつかもっと明るく、幸せになり、そして小さな女の子が暖かな自分の家の中で、机に座って明るい電気の下で絵を描ける様になった時に私はここに戻ってきます。

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