海が燃えた日

2011年4月22日

先週の4月13日(水)と17日(日)に、陸前高田市と気仙沼市で9,998足の靴下を配りました。この二カ所は岩手県と宮城県の県境にあり、震災で大きな打撃を受けました。もし現地でもう少しで区切りのいい1万足配布に達すると知っていたら、どなたかに2、3足渡していたでしょうが、最終的に数えたところ9,998足を配ったことになりました。さて、栃木県佐野市から東北自動車道を北上し、今回は435キロ(270マイル)走行しました。

ボランティアのよしこさんとみわさんが私に同行し、今では普通となった午前3時出発となりました。

自動車道から海岸の方へ向かう途中、最初はのどかな田園風景が広がっていました。しかし山地域と海地域の境目に近づくと、そこにはがれきの山が待っていました。

どの段階で海岸に近づいているか見過ごすことはできません:

陸前高田市は漁業の町で、かつての人口は2万3千人でしたが、3月11日の震災で人口の10パーセントを失いました。昔の海岸線はなくなり、そこは建物の残骸やがれきで埋め尽くされています。

46歳の陸前高田の市長は3月11日に奥様を亡くされましたが、まだお子さんたちに自分たちの母親が亡くなったことを伝えていません。市長はフランス通信社のインタビューに応じて、「この街を再建するには少なくとも10年かかるでしょう」と言いました。しかし彼は市が完全に復興を遂げることに疑いを持っています。なぜなら「みんな単純にこの街に住むのを怖がっている」から。さらに、震災を生き延びた43歳の男性は、「友達や親戚が波にのみ込まれた場所で生きていくことなんてできない。俺は海とともに成長し、海が俺を育ててくれた。前は浜辺を歩くのが好きだったけど、今はそんなことできやしない」と。

荒れ地を走る私たちの大型バン:

なかなか進まないがれき除去作業:

それは被害があまりにも大き過ぎるため:

その中にはまだ遺体や所持品を探す人たちが:

以前あった道路が破壊されていたり、一時的に敷かれた道も頻繁に変わったり通行止めになったりするので、避難所への道のりを尋ねてまわらなければなりません。これはほかの被災地でも同じでした。

私たちはようやく最初の避難所に到着しましたが、そこにはたくさんの人たちが駆けつけ、靴下と手紙と元気が届けられたということを聞きつけたみなさんが列を作って待っていました。一人二足までがルール。

日中に街の中で一番大きな避難所に行きましたが、そこでNHKの取材班が待ち受けていました。プロデューサーもほかのスタッフのみなさんもとても親切で、「私たちのことを気にしないで、普段通りに仕事をしてください」と言ってくださいました。

靴下の配布はうまくいきました:

たくさんのみなさんが靴下と手紙を受け取りました:

最後の方ではこのかわいい女の子も靴下を受け取りました:

その後に心温まるNHKのインタビューがありました:

お昼に入り江の裏側を通って陸前高田へ向かいましたが、そこも海岸線と同様、がれきの山が広がっていて、その風景に私たちの心は沈みました。

陸前高田と気仙沼の間に一時間ほど穏やかな田舎の道がありました:

そして再びがれきの光景に戻りました:

気仙沼に広がるがれきを見て、ほかの場所とちょっと違うことに気づきました。がれきの色がオレンジ色がかっていて、燃えた後のように見えました。実は気仙沼では地震と津波の二つの災害だけではなく、三つ目に大火災が発生したのです。

二隻のまぐろ漁船が津波の威力で衝突し、その影響で油が漏れ、油混じりの水に火がつきました。辺り一面に炎が広がり、それがさらに内陸の方へ押されました。3月11日にこの炎上を目撃した人たちは「現実離れした風景」だったと表現しました。この小さな街は地震に揺れ、波にのまれ、そして炎に巻かれたということです。今の街の風景はこちら:

大災害に襲われた風景のど真ん中に巨大な漁船「第十八共徳丸」の姿がありました。その船橋には安全第一とペンキにで塗られていました。共徳丸の船員は辺りの街が燃えている一晩中、乗船したまま船から離れることができませんでした。地元の人たちは周辺が燃えているのを見ながら、漁船の燃料に火がついて、船が炎上して爆発するのではと心配しました。実際にはそうならず大丈夫でした。今では共徳丸は有名な目印になりましたが、これから何ヶ月もそこに居座ることでしょう。

近くの道沿いにセブンイレブンの残骸が:

幽霊屋敷のような建物がぼんやりと浮かび上がり、風が壊れた窓を通り抜ける度に不気味な音を立て、さらにダメージを受けた横壁から金属音が鳴り響きます:

私たちは一帯のがれきを通って港の方に向かい:

さらに水浸しの道路を通り:

破壊された商業地区を通り:

ホテルに泊まらず、私たちが大型バンの車内で休んだ理由:

そして一面のがれきの海の中で私の目を惹いた一軒のかわいらしい小さな家:

この小さな住宅のことを覚えていてください。また後ほどこの家とその住人の方々のことをお話しします。最初この建物を見た時には、かわいらしい家としか思いませんでしたが、後でどなたがそこに住んでいらしたのか、そしてその方が今どうなさっているのかが頭をよぎりました。ほかの被災地を訪ねた時もそうでしたが、空の星たちに私の願いが聞こえたのか、ちょっとした運命の出会いがありました。

でもすべてがうまくいくということでは決してありません。私たちは気仙沼市の港から次の避難所に向かいました。そこは市で一番大きな避難所で、中に千人の方々がいらっしゃいます。私たちのリサーチチームが事前に市役所の方から靴下を届けてほしいとリクエストがありました。きちんと2,500足の靴下をその避難所のために取っておき、さらに陸前高田で靴下を配った後に佐野市に戻らず、直接気仙沼へ向かいました。

その避難所に着いてすぐ、無情な官僚タイプの黒井氏という方に会いました。私たちは自己紹介し、彼から温かく喜びに満ちた反応が返ってくると思いました。避難所でのお決まりの手順としては、ここで大急ぎで靴下と手紙をみなさんに配る準備に取りかかりますが、その代わりに黒井氏は「ここでは物資を直接配布しないというルールがあるんだ。ごめんなさい」と言ってきたのです。

「ちょっと待ってください」と私は言い返しました。「市役所から靴下を配布してほしいとリクエストがありましたよ。400キロ離れた栃木県佐野市から2,500足の靴下を持ってきたんです。これを配ったらダメだと言っているんですか?」

「そうです。ここではそういうルールがあるので。ごめんなさい。お願いですから帰って!」

彼はそれで問題が解決したかのように話を打ち切りました。それはまるで食べかけの食事に戻って、それまでのことがなかったかのような態度でした。私は声のトーンを変え、彼に迫りました。「おいおい、ちょっと待ってください。これでおしまいだと思っているんですか?これで私たちが容易く消えてしまうと思っていないですよね?まだ決着がついていないどころか、バトルははじまったばかりですよ 。」

彼は私のことをぎらっと怒りの目で見つめましたが、多少興味があるような目つきでもありました。このような状況は彼にとってはじめてなのです。日本人はマニュアルやルール通りに行動することが常で、それに沿わないことを対処するのはいたって苦手です。彼もその一人で、靴下を配ってはいけないというルールを守ることが彼にとって大事なのです。でもこれがことの終わりなのでしょうか?

私たちは彼の前を通り過ぎ、自分たちの目で避難所のみなさんの様子と、どれだけ物資の需要があるか確認しました。その必要性は私たちに明らかでした。大きな部屋にたくさんの方たちが避難している状況は、ほかの避難所と同じでした。一人の男の子が私たちが何をしているのか聞いてきて、靴下と手紙を持ってきたと説明しました。その男の子は「ぼくも欲しい!」とうれしそうに言いました。「でもここの責任者が私たちに帰ってほしいと言ってたの」とボランティアのよしこさんが言うと、「それは失礼だよ」と彼は嘆きました。

私はよしこさんに市役所に電話を入れ、靴下を持ってきてほしいと話していた方にこちらの事情を説明するように言いました。残念ながらその方はいらっしゃいませんでした。その時電話を取った市役所の方は何も権限がないと言い、黒井氏がその晩の避難所での責任者だということを知らされました。これには参りました。

私は体育館で避難していらっしゃるみなさんに靴下が必要か尋ねました。一人の方は「はい」と答え、そして私に靴下を持っているかと聞いてきました。「2,500足の靴下を持ってきましたよ。でもここで配ってはいけないと言われたんです」と伝えました。みなさんは「それはおかしい」と口を揃えて言いました。私たちはその体育館のボランティアチームのところに行きましたが、その中で二番目の責任者という若い男性に会いました。彼は「日本に靴下を」の本部がある佐野市の近くの群馬県から来ていたこともあって、私たちはすぐに彼と気が合い、そしてなぜ私たちがここまで来たかを説明しました。

彼は「みなさんは確実に靴下が必要です」と言いました。

私はうなずきました。「そうですよね。だったらここで靴下を配っちゃいましょうか?ここの角に配布場所を設けますので、みなさんに宣伝して、すぐに靴下と手紙を渡しはじめましょう。」

「うん、まあ、そうしましょうか」と彼は頭を掻きつつ、躊躇した様子で私を横目で見ながら、「僕の上にいる人間にちょっと聞いてみますね」と言いました。彼はその場を去り、戻ってきた時には一人男性を連れてきました。この人も困惑した表情を見せ、私たちにもう一回事情を説明してほしいと言いました。「ここの責任者に確認しないで、好き勝手に物事を進めることはできないんですよ。」それはもちろん。「ちょっと待ってください。ここの避難所の責任者に聞いてみますね。」

「もしかしてさっき私たちに帰れと言った人ですか?」

「そうだと思います。少しお待ちください。」

数分後にこの若い男性が私たちのところに戻ってきて、責任者にルールはルールなので靴下を配ることは不可能だと言われたことを謝りながら説明しました。「でもこのルールは従うべきルールだと思いますか?」私は尋ねました。「それはちょっとわかりません。僕が判断できることではないので。」彼はストレスに満ちた顔で私に言いました。「本当にごめんなさい。」

そこにいたみなさんは謝罪を繰り返しました。私たちはフロントにあったテーブルの前を通り、気分転換と戦略を練るために一旦外に出ました。ボランティアのみわさんが「しょうがないのであきらめましょう」と。「次のところに行きましょう。ほかに私たちを必要としている避難所があるはずですよ。」このコメントを耳にした瞬間、私は怒りを抑えることができなくなりました。

私は彼女にきっぱりと言いました。「みわさん、私は決してあきらめませんよ。私たちがしていることは正当で、正しいことをすることが大事なんです。そしてそれを突き通す強さを持たなければなりません。たった一人の人の判断と威力にひるんで、 何千もの人たちに物資を配らないでいいんですか?」

「いいえ、でも彼はダメだと言っていましたよ。」

「彼はそれがルールだと言っただけで、ここでそのルールを破るべきです。私の言うことをちゃんと聞いてください。私たちは二つの大人数のグループのために行動しています。一つは何十万人もの被災者のため。もう一つは世界中から靴下と資金を提供してくださって何千人もの人たち。寄付してくださって方たちは私たちが靴下をちゃんと被災者に届けてくれると期待しています。いま私たちの前に立ちはだかっているのはたった一人の人間ですよ。その人の不条理な判断でたくさんもの人たちの思いをないがしろにすることはできません。」

そこで私たちは主任リサーチャーのたか子さんに電話を入れましたが、彼女は私たちが置かれている状況を信じられなさそうに聞きました。彼女は直接黒井氏と話をしたいと言い、私たちはまた後で避難所のフロントからたか子さんに電話をすると伝えました。私はボランティアの女性スタッフ二人の肩を握りながら言いました。「決してあきらめてはいけませんよ。何があっても、何を言われても、どれだけ大声になっても、私のサポートをお願いします。」みわさんとよしこさんはこの約束を守ることを誓いました。

私たちは避難所に戻りました。「またあなたたちかい?」黒井氏が窓のところに来て言いました。

「靴下と手紙を配らなくてはならないんです」とよしこさんが言いはじめました。「ですから私たちの主任リサーチャーと今の状況について話してください。」電話の向こう側にたか子さんが待っていましたが、みわさんが受話器を黒井氏に渡し、二人は数分間話をしました。

会話を終え、彼が受話器を私に手渡しました。たか子さんは運が尽きたと言い、黒井氏が私たちの要求に同意しなかったと言いました。そこでよしこさんが再び彼に、私たちがどれだけの距離を走行してここまで来たか話しはじめましたが、黒井氏は彼女を断ち切りました。「みなさんの気持ちはわかります。でも申し訳ないですがルールはルールです。」

「市役所が私たちに来るように要請しました」とみわさんは言いました。

「市役所の言うことは間違っているんだ。」

「でもここの被災者は靴下が必要なんです。」

「靴下がいる人といらない人といるでしょう。」

「ではここでみなさんにアナウンスしましょう。靴下が欲しい方たちは列を作って待っていただいて、欲しくない方々は布団から出なくてもいいですよと。これでどうですか?」

「でもルールを破ってはいけないんだ。」

「みなさんのニーズに応えることの方が大事じゃないんですか?」

「そういうことじゃないんだよ。」

「いや、まさにそういうことなんです!」

「ルールは無視できなんだ。」

「でもそれがおかしいと思いませんか?この避難所に何人の方々がいらっしゃるんですか?」

彼はその答えを知りませんでした。

私は彼に言いました。「ちゃんと管理された避難所では、何人の方たちが避難しているか毎日正確な数字がわかっているんですよ。そしてその数字の変化もきちんとモニタリングしているんです。」彼は少し不快な様子を見せましたが、私は続けました。「あちらの部屋にいらっしゃるみなさんが靴下が必要なことをご存じですか?」彼は頭を横に振りました。「さっきみなさんに聞いてみたんですが、全員が靴下が必要だと答えたんです。確認してもらってもいいですよ。全員です。」私は彼に言い続けました。

「ルールを守ることの方が靴下を配ることより大事なんだよ。」彼は威張りました。

「それは誰にとって大事なんですか?」

「みんなにとってだよ」と彼は答えたものの、その判断を自ら疑っていることが見え見えでした。しまった、これは間違ったことを言ってしまった。でもどうしたら面子を保ちながら、言うことを変えることができるのだろう?

よしこさんも彼の表情と口調の微妙な変化に気づきました。「これはただ単にあなたのプライドの問題じゃないんですか。あなたの変なプライドが邪魔をして、何千人もの人たちに新しい靴下を届けられないんですよ。それでいいんですか?」

「これはプライドの問題じゃない。あなたたちはちょっと困惑していますね。」

「あなたのプライドの方がここで避難しているみなさんより大切なんですか?」私は聞きました。「どうでもいいようなルールとあなたの些細な権力を尊重することに気を遣って、それであなたの街の人たちを助けなくていいんですか?あなたは最低ですね!」

彼のスタッフたちが彼の後ろに陣をなすようにして集まりました。そして私たちの後ろには被災者の方たちが集まっていました。このような光景は普段避難所では見られません。静かに騒ぎを立てないことがグループでサバイバルするために大事なのです。しかしここではみなさんがこのせめぎ合いに興味を持っていました。何が起きているんだ?

「わかった。俺は最低な人間だ。もうどうでもいい。帰れ!」彼は言い返しました。

「私たちは帰りませんよ」と私は言いつけました。「みなさんに靴下を配布できない限りは帰りません。」そこで私はカウンターに身を乗り出し、黒井氏の後ろに集まった人たちに尋ねました。「みなさんの中に彼を説得して考えを正してもらえる方はいらっしゃいませんか?新品の靴下と激励の手紙を拒否することがどれだけ間違っているかわかりますか?どなたかいらっしゃいますか?」

人だかりの中でつぶやきが聞こえました。前の方に立っていた人が黒井氏に一言、判断を彼に任せるというようなことを言いました。

「そうですか。」私はあざけって、最も非日本人的な態度で言いました。「でももし責任者がアホだったらどうしますか?」一瞬空気が凍てつきました。「どなたか建設的な意見はありませんか?私たちにまた400キロ以上運転して、大型バンに詰められた2,500足の靴下を持って帰れと言っているんですか?この靴下は被災された方々のためにここまでわざわざ持ってきたんです。あなた方は私たちにそうしろと言いたいんですか?」

「俺たちはルールはルールだと言っているんだ。」黒井氏は口を開きました。「市役所は間違っていたんだ。俺たちのせいではない。」

「市役所のどなたかが間違った判断をしたことはわかりました。直接物資を配ってはいけないというルールがあることも承知しました。しかしここでこの状況に至った過程を振り返りましょう。私たちはたくさんの靴下を無料で配るために長い間運転してここまでやってきました。今のこの状態ではそのルールを当てはめることは変だと思います。どこか遠くの役所で官僚が作ったルールに従うのではなく、ここで正しく道徳的な判断を下そうじゃありませんか。」

黒井氏の後ろに集まった人たちと、私たちの後ろに集まったみなさんが一気にしゃべりだしました。黒井氏側にいる橋本氏という年配の方が、オフィスの奥の方から前に出てきました。彼とも同じようなやり取りを繰り返し、どうにかして責任者の考えを変えてもらうきっかけを作ろうとしました。橋本氏は黒井氏が権力を持っていると言い、そして私は黒井氏が間違っていると言い返しました。「たった一人の自分の間違いを認めない臆病な人の言い分に従って、私たちを栃木県佐野市に帰すんですか?ここで靴下を配ることが正しいと思いませんか?」私たちはこうしてやり取りを数回繰り返しました。橋本氏は自分の意見を、よしこさんは私たちの意見を何度も伝え、また橋本氏が返答し、そこに私も加わって反駁しました。議論は全く前に進まず、私たちはある時点からただ黙ってそこに立っていました。

黒井氏は言いました。「時間が遅くなったのでもうどうにもできませんね。」

「それは誰のせいですか。」私は怒りをぶつけました。「私たちは一時間半前にここに到着しました。あなたが邪魔をしていなければ、もう靴下を配り終わって、帰宅の途についていたはずです。」

ガラス戸で隔たれた二つのグループの間に沈黙が広がりました。橋本氏は黒井氏の無表情の顔と私の怒った顔を見ました。彼はペンでとんとんとカウンターの上で音を立てました。彼の後ろには若い男性たちが硬直した状態で立ちすくんでいました。彼らの目は黒井氏と橋本氏に向けられ、さらにオフィスの前に集まった私たちと被災者のみなさんの方に向けられました。橋本氏はまた私のことを見、目が合った瞬間私は眉を上げました。 そこで突然彼が黒井氏に向かって言いました。「ルールを破りなさい。」

若い男性スタッフの緊張が一気に解けました。橋本氏の一言がきっかけに敵が味方になり、オフィスにいたスタッフたちが靴下を配るのを手伝ってくれました。私たちの後ろに待機していた被災者の方々が少し騒ぎ立てました。そんな中、私と黒井氏の目が合い、私は何年か前に家族内のけんかから学んだことを思い出しました。勝っても負けてもけんかの後味は悪く、負けたら落ち込み、勝ったら勝ったで罪悪感が湧いてきます。私たちの目が合ったほんの一瞬の間、私と黒井氏は後悔の思いを共有したように感じました。私は彼のことをアホで最低な人間だと言わなければよかったと、そして彼もきっと私たちに帰れと言わなければよかったと思っているだろうと。それは束の間の気持ちの通い合いでした。

みなさんに靴下を持ってきましたよ!

若い男性たちが大きなカートを二台使って、大型バンに詰め込まれた靴下を全部避難所の入り口の中まで運んでくれました。そこにテーブルを設置して、音響システムを使って靴下配布のことを伝えました。男性たちが廊下に並んだ被災者のみなさんを誘導し、そして私たちは靴下と手紙を配りました。次の何枚かの写真を見ると、テーブルの前にできた列と、廊下のずっと後ろまで続いた列の長さと、さらに列が柱の周りを曲がりくねってまた右側に出てきた様子がわかると思います。何千人の方たちが靴下と手紙を待つとこういうことになるのです:

私たちは最後の一足まで全部配りました。

一人の男性が私の手を取り言いました。「向こうのオフィスでの口論を聞いたよ。靴下の配布を実現してくれてありがとう。本当にありがとうね。」それから夜遅くに空っぽの大型バンを運転して佐野市まで帰りました。道中、みわさんがその日たくさんのことを学んだと言いました。「例えば何?」私は彼女に聞きました。「自分が正しいとわかってる時はあきらめないということ。」その彼女のコメントが私の帰路の気分を温めました。

気仙沼市で起きたいざこざのニュースは、佐野市のSocks For Japan「日本に靴下を」のボランティア本部にもすぐに届いていましたが、もう二度と不快で感謝の意を持たない街に靴下を届けない方がいいと言い出す人たちもいました。今となって頭が冷え、あの時の状況を振り返ってみると、たった一人の人間の判断の悪さを理由に、被災された方々に必要な物資を届けないというのは間違っていると思います。「物資の需要度が高いので、私たちはまた気仙沼に戻るだけではなく、次の配給の時にまた行きましょう。」私たちはそう決めました。

私たちはこれまででサイズが最も大きい大型バンのトヨタのハイエースを使用して、再び気仙沼市に向かいました。普通は「靴下何足」という量り方で車の容量を示さないでしょうが、このバンは一万足の靴下を収容することができます。それ以降の靴下の配達をすべてこのバンで行いました。 ディーゼルエンジンなので燃料コストを削減することができ、さらに車のトルクが低回転なので、津波による泥と水浸しの道を運転するのに適しています。日本ではディーゼルの方がガソリンより値段が安いのですが、ディーゼルの方が燃費がいいので、お買い得ということになります。この写真は私たちのハイエースで、これに乗って最初の配達に行く前に撮りました:

車内に靴下を詰め込み、るみこさんとたつやさんと一緒に朝3時に出発しました:

前の週の水曜日に出向いた陸前高田市と同じように、自動車道から気仙沼市まではのどかな風景が広がっていました。

しばらくすると田舎が破壊された港町の光景に変わります。

私たちは一時的に敷かれたり遮断された道路が広がる中で迷ってしまい、 再び混乱状態に直面しました。そこでるみこさんが二人の作業員に道を尋ねました。

私たちは破壊された街の中心地に向かいました:

車のナビゲーションシステムを見てみると、道路には破壊されてなくなった建物がまだ示されています:

さらにかつて繁盛した港町を通り:

私にとって見慣れた場所へ:

私は前回気仙沼市に来た時、黄色くて小さい住宅を見たとるみこさんとたつやさんに伝えました。その家にはかつてどなたが住んでいらして、今その方たちがどうなさっているのか気になりました。私はバンを降り、その家の写真を撮っている間、白い車が家の前に止まりました。

車から家族が降りてきて、その家族の母親が私が写真を撮影していることに気づきました。彼女は私に近づき、「これは私の家です」と言い出しました。

「何とおっしゃいましたか?」私は聞き返しました。「お家の写真を撮らせていただいてよろしいですか?先日ここを通った時、この家が気になったんです。かわいらしいですよね。どなたが住んでいらして、今どこでどうなさっているかを考えていたんですが、そうしたらみなさんがこうして現れたんです。ここに頻繁に戻ってこられるんですか?」

「いいえ。津波に襲われてからはじめてです。」

何という偶然でしょう。気仙沼のこの一軒の家の前をたまたま通り、この家の住人がどうなさっているのか想像を膨らませている間に、その家族が3月11日以来はじめてこの場所に戻ってきたということは奇跡としか言いようがありません。私と家族のみなさんが話をしているのを見かけたるみこさんはバンを降り、私たちの方へ走ってきて会話に加わりました。

この家族は菅野さんとおっしゃって、母親は62歳のよねさん。上の写真の左側に写っているのは彼女の娘さんはあきこさん。地震が発生した時、よねさんが自宅にいましたが、その後近く山の方へ走っていき、そこで津波警報を耳にしました。

よねさんはその夜、避難した山間部ではじめて知り合った方々の家に泊まりました。翌日線路に沿って親戚の家まで歩き、そこであきこさんに連絡を取りました。あきこさんは東京から10マイル北の埼玉に住んでいて、自分の母親を埼玉に連れて帰るつもりでいます。

よねさんは破壊された自分の家を見上げました 。「二年前の4月29日に『よしもと』というレストランをはじめたんです。もう本当に残念ですわ。今日こうしてここに戻ってきて、形見を拾いに来たんです。何か残っていればいいんですけどね。」彼女はしょんぼりと首を横に振りながら言いました。

私は一緒に家におじゃましても気にならないかと彼女に聞きました。彼女はいいですよと答え、玄関先の階段を上りはじめました。

家の中に入ってみると、すべてのものが跡形もなく壊れて散らばっていました。どんなに小さなものでも粉々になっていたり、なくなっていたりしました。彼女はつぶやき声で「ああ、これも」「あら、これもダメ」「何年もの思い出が」と何度も言い返しました。

そこには回収できそうなものが何もありませんでした。

みなさんは4時14分で止まった時計を見つけました。この時計は津波が襲った15分か30分後まで動いていたのではないかとみんなで推測しました。たった一つの形見ですが、これが菅野家の思い出の一品となることでしょう。

よねさんは装飾的なカーテンがまだちゃんと残っているのを見て喜びました。津波がそこまで上がってこなかったということなのでしょう。

私たちは菅野家のみなさん、特によねさんにこれからも元気でいらしてくださいと伝えました。私たちは娘さんの携帯電話番号を教えてもらい、またいつか連絡を取ることにしました。近々よねさんがどうなさっているのかお聞きしようと思っています。かつてあった彼女のレストランの前の道は左右このように広がっていました:

また道路を確認するためにちょっとの間車を止め、そこから最初の避難所に向かいました:

ようやく目的地に着き、靴下の配布に取りかかりました:

また次の避難所へ向かう途中、炎上した街の跡地を通りました:

そのがれきの中に、私たちと同じような白いトヨタのハイエースを見つけました:

その燃え尽きたハイエースに近づき、さらに私たちの新品のハイエースと見た目を比べました。その背景は積み重なったがれきの山。

このバンが最近まで:

このようだったのかと思いを巡らせました:

近くに共徳丸の姿が:

通りがかりにこの巨大船に会釈しました:

たくさんの方たちががれきの中から何か見つけようと必死でした。

ここで私たちはその日最も多い量の靴下を配布しました。市役所が主催になって、被災者のみなさんが靴下を受け取れるように場所を確保してくださいました。私たちはその建物の前に大型バンを駐車し、「靴下」と書かれたサインを車の上に置きました。それから私たちはプラカードを持って集まった人たちの周りを歩き、靴下と手紙が「こちらにあります!」とみなさんを導きました。それはまるでスポーツのスタジアムにいる客引きのようでした。被災者の方々からすぐに反応があり、またたく間にたくさんの人たちが集まりました。

次の目的地では自衛隊の方たちにも靴下を渡しました。

また次の避難所に向かう途中、今までとは違った破壊の風景を目の当たりにしました。私たちは躊躇なく深い水たまりや泥の中を大型バンで入っていきました。

一人の男性が私たちに声をかけ、こちらに向かって走ってきました。この方は内海さだかつさんとおっしゃって、彼はその日市役所で私たちから靴下と手紙を受け取ったと言いました。内海さんは息を切らしながらもとても喜んだ様子で、近くのがれきの中に自分の車を見つけ、車内に自分の運転免許証があったことを私たちに教えてくれました。「これは助かったよ。政府がたとえ津波で免許証をなくしても、それなしでは運転しちゃいけないて言ったんだよね。見つかってよかったよ!車も家もなくなってしまったけど、免許証があるから大丈夫だよ!」

彼は自分の車を見つけた場所に私たちを連れていきましたが、幸運にも奥さんの車が大丈夫だったので、とりあえずそれに乗って街をまわれると説明しました。「そうしなきゃならないんだよね。俺たちは大変な立場にいるからね。」津波の被害はもちろんのこと、それ以外に彼の発言にどういう意味があるか聞きました。「政府は仮設住宅を80歳以上の人たちのために取っておいているんだよね。俺はまだ68歳。問題は新しい仕事を見つけるには年を取り過ぎている。この年齢では誰も雇ってくれない。仮設住宅に入るには若すぎて、仕事に就くには年寄り過ぎている。でも今はとりあえず車に乗って何か探すことができるってことかな。何があるかわからないけど、きっと何かあるでしょう。」

内海さんの近所から最後の避難所までの道のりは長く、所々通るのが困難でした。

ようやくそこに到着し、みなさんに元気になってもらえるように私たちも頑張りました!

暮れようとしている太陽を見ながら、私たちはその日の任務を終えました。再び私たちはがれきの中を運転しながら、その先に待っている穏やかな田園風景に思いを馳せました。そののどかな光景が帰路につく私たちに活力を与えます。

暗い夜にも必ず光が現れ、がれきと灰の中にも必ず自然の息吹が顔を見せ、そして道路には古いタイヤの跡の上に新しいタイヤの跡が敷かれる。このことをみなさんにお伝えしたいです。私たちが気仙沼で体験したように、どんな困難があっても私たちはこれからも躊躇なく邁進していきます。

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