高橋さんの旅館

2011年6月2日

私たちSocks for Japan「日本に靴下を」の ボランティア情報 のホームページを通じて、 ボランティアの方々が世界中から集まってきました。その中の二人が、米国カンザスシティーのジョー・ワルチさんと、シンガポールのシューファング・ホーさん。そして偶然にも、5月21日に東松島で靴下を配布中に、アメリカのフォトジャーナリストのスチュアート・パリーさんという方に出会いました。彼は自分のポートフォリオのために靴下を配る様子を撮っていいかと尋ね、私は「はい」と答えました。ということで、5月25日にジョーさん、シューファングさん、スチュアートさんが、当日のマネジャーをつとめた私となおこさんとともに女川市に行く準備をしました。

ジョーさんは数年前、石巻工業高校に交換留学生として来ていた経験があります。ジョーさんは私たちが靴下と手紙を石巻に届けたことを知っていて、それがきっかけで私たちの手伝いをしたいと言ってきてくれたのです。実はジョーさんへのサプライズとして、我がスタッフのたか子さんが手腕を発揮して、震災を生き抜いた石巻工業高校の生徒さんたちに特別に靴下と届ける手配をしました。このニュースを女川に行く途中にはじめてジョーさんに伝えた時、彼は大喜びで、その当時の先生たちや、さらに大変お世話になった当時のホームステー先のお母さんに会えることが待ち遠しい様子でした。

校舎の入り口でサインを持って、校長先生と学校のスタッフはジョーさんの訪問を嬉しそうに待っていました。その光景を見る前にも、彼は学校界隈の様子になつかしさがこみ上げてきたようでした。校舎へ向かう道中、ジョーさんは登校ルートや友達と過ごした場所を教えてくれました。ようやく学校の入り口にたどり着き、サインを持った校長先生や教師たちを見て、ジョーさんは喜びをあらわにしました。

しばらくしてホームステー先のお母さんが来てくださいました。その再会の様子をスチュアートさんが写真におさめました。

私たちがこの学校に来た一番の目的は、靴下と手紙を震災に遭った学生さんたちに配ることです。その中には地震と津波で家を失い、さらには家族をなくした方々がいます。生徒たちが学校に戻ったことはいいことで、これで少しでも平常心が戻り、友達と楽しく過ごすことができているはずです。

私たちから直接靴下を受け取れなかった学生さんたちのために何足か置いていきました。先生たちはその生徒たちにも、これらの靴下が世界中の人たちから届けられたものだと伝えると約束してくれました。これまでもそれぞれの配布地でのリーダー的な方たちに、私たちについての情報と、靴下に託された被災者の方たちへの思いを説明してきました。

そして私たちは女川市に向かいました。がれきの撤去作業は思ったより早く進んでいましたが、それでもこの先の復興の道のりは長そうです。

私たちは内陸に位置する高校で靴下を配布しました。これはよくあることですが、この学校には震災に遭った海岸地域の高校から生徒が移ってきました。一校に全生徒を受け入れることができないので、学生たちは数校に分けられました。友達と離れ離れになるのはちょっとかわいそうですが、たくさんの人たちが被災したのでこれは仕方がないことかもしれません。

4月10日の靴下配達の際、奥さんの指輪をはめた男性の話をお伝えしましたが、今回私たちはその男性がいた場所の近くにある小学校で靴下を配りました。その学校は避難所への物資をおさめた倉庫の横にありますが、そこでは小学生が今でも授業に出席しています。スチュアートさんが靴下を配る光景を見事に捉えました。

これは出張郵便局「ミニポス」のトラック:

そして被災者の方々はここで電話をかけたり、インターネットを使ったりします:

私たちは近くの高校の学生さんたちに靴下と手紙を配りました。その後お昼に佐藤さんという方が自宅のがれきの中を案内してくれました。

佐藤さんは今は例の小学校の近くにある避難所に住んでいます。3月11日に被災された方々はたくさんのものを失いましたが、それでもみなさんはほかの人たちに助けの手を差し伸べています。佐藤さんもその一人で、避難所の小さなマットの上で、自分の避難所や、時にはほかの避難所に送る援助グループの連絡係をつとめています。かつて自宅があった場所に可愛らしいすずらんの花が咲いているのを佐藤さんが見つけました。

私は佐藤さんから話を聞きつつ自宅界隈のがれきの中を歩いている時、様子のおかしいお年寄りの女性を見かけました。その女性は脚を引きずっていましたが、それは膝下から義足をはめているような歩き方でした。さらに彼女の眼を見てみると、あまりよく見えていないのがわかりました。おぼつかない足取りと弱い視力では震災後の日々を生き抜くのは大変でしょうが、彼女はしっかりと確かなペースで歩んでいました。

この女性は旅館らしき建物のがれきの前に立ち止まり、破壊されたカウンターに身を乗り出しながら辺りの様子を見回していました。彼女はゆっくりと悲しそうに左右上下に頭を動かしました。私は彼女に近づきました。

「これはあなたの旅館ですか?」私は尋ねました。

「はい。とても素敵な旅館でした。」彼女は辺りの光景から目を離さずに答えました。「この旅館は鹿又屋旅館といって、ここは海の近くなので各地からたくさんの人たちが泊まりに来ました。このカウンターはフロントデスクで、ここで何年もの間お客さんを歓迎してきたんです。」彼女は突然何かを思い出したかのように言いました。「ここまで飲み物を取りに来たんですよ。」

この女性は78歳の高橋みつえさん。津波で所持品をすべて失い、家族は生き残りましたが、みなさんは仙台に移り、破壊の激しい女川には戻ろうとしません。高橋さんだけがここに残り、一人で避難所に住んでいます。この日、高橋さんは旅館の2階に置いてあった瓶の飲み物を取りに来たのです。

シューファングさんと高橋さんと私の三人で、その旅館の階段を上り、飲み物を取りに行きました。

彼女が取りに来た瓶の飲み物はたった15本足らずでしたが、津波の泥にまみれて辺りに散乱していました。高橋さんはこれを取りに来るためにわざわざ丘から下り、がれきの道を通ってここまで来たのです。私の心は沈みました。

彼女は自分のリュックサックに瓶を入れはじめ、私とシューファングさんも手伝いました。私は高橋さんに「後で避難所まで車で送って、そして新しい靴下を差し上げますよ。」と伝え、彼女はそれはとてもありがたいと答えました。

私たちは佐野に戻り、シューファングさんが高橋さんの鹿又屋旅館について調べましたところ、Panoramio に震災前の旅館の写真を見つけました:

これが今の鹿又屋旅館の姿です:

私たちは旅館を出て、話を続ける高橋さんを囲みつつ耳を傾けました。彼女の悲しみは積もりに積もって、涙となって流れました。「この年齢になってこんなことをしてるなんて。一人になるなんて思ってもいなかったんです。」彼女は悲しみを堪えながら言いました。私たちも一緒に涙を流し、傷心の思いを共有しました。

スチュアートさんが私たちが大型バンまで歩く様子を写真におさめました。高橋さんに少しでも元気になってほしいという願いを込めて、彼女に靴下と手紙を選んでもらいました。

私たちは丘の上まで車で上がり、そこで高橋さんが集めた瓶を水で洗い、それから彼女がいる避難所の寝床まで届けました。

高橋さんは私たちに尋ねました。彼女のいる避難所の方々に靴下を配れないかと。私たちは今後のアポや在庫を確認し、嬉しいことにそこで靴下を配布できることがわかりました。なおこさんと私は避難所の管理者と話をし、靴下のゲリラ配布をすることに決めました。先に次に行く予定の避難所に向かいましたが、そこは学校が避難所になり、主にお年寄りの方々が滞在しています。私たちはそこの体育館で靴下を配ることにしました。以下、スチュワートさんの写真です:

高橋さんがいる避難所に戻る途中、一人の男の子が私たちの方に手を振りながら、声を掛けてくれました。「日本に靴下を!さっき学校で靴下をもらったよ!ありがとう!」

その男の子のうれしそうな姿が今回なおこさんにとって一番印象に残っていると言いましたが、その意味が私にもわかります。ほんの些細な場面でも私たちがしていることがみなさんの役に立っているということが確認できると、エネルギーをもらい不思議と元気になるものです。この男の子に「充電」してもらった後にがれきの山を通って高橋さんのいる避難所に向かいました。私たちは女川駅界隈の破壊の風景と除去作業の様子を写真におさめました。

以下の2枚は私が撮った写真:

この3枚はジョーさんの写真:

そして次の3枚はスチュワートさんの写真:

誰が本物のフォトジャーナリストか一目瞭然ですよね?

私たちは高橋さんのいる避難所で靴下と手紙を配りました。みなさんは手を伸ばして靴下を受け取り、そして同時に靴下の配布をも手伝ってくれました。

夕食をもらった方たちも体育館の外のロビーで靴下を受け取りました。

スチュワートさんのカメラと写真は子どもたちにとても人気でした。

これは上の写真に写っている女の子:

次のテントの避難所に向かおうとした時、赤ちゃんを背負った一人の女性が靴下をもらえないかとやって来ました。女性の靴下だけではなく赤ちゃんの靴下もあることを彼女に伝えました。ジョーさんがその様子を撮影。

その日の最後の配布場所は、高橋さんのいる施設から坂を下りたところにあるテントの避難所でした。ここに住む方々は、普通の避難所で場所を確保することができず、震災から数日数週間の間を車の中で過ごしました。後にその被災者のみなさんのために自衛隊が丈夫なテントを設置したという訳です。

毎日の生活は大変ですが、みなさんは陽気でご機嫌でした。

私たちは破壊された街を通り、日が沈む中帰宅の途につきました。いまだに復興が進まない光景を見ると、3月11日の地震と津波から3ヶ月近く経ったことが信じられません。

私たちは車のヘッドライトを女川のかつての繁華街に向けました。薄暗い光の中、スチュワートさんと私はそれぞれその辺りの様子を撮影しました。

ようやく午前2時にホテルサンルート佐野に到着。ここに遠隔地から来たボランティアのみなさんが格安の値段で泊まっています。私たちは疲れ果ててへとへとでしたが、6,376足の靴下を配った満足感に浸りました。

ジョーさん、シューファングさん、スチュワートさん、靴下をプロセスし配布してくださって、ありがとうございました。さらに遠く離れた場所から日本のためにボランティアに来てくださったエイドリアンさん、ダンさん、ホセさん、ハシムさん、みやこさん、ロジャーさん、シャンタさん、ゆうやさんへも感謝の気持ちをお届けします。この方々のレポートはまだ書かれていません。ほかにもボランティアをしたいという人たちがこちらに向かっています。もし私たちと一緒に佐野で活動したいという方がいらっしゃれば、このウェブサイトに掲載してある情報をご覧ください。

マレーシアのペナン州の喫茶店からスチュワートさんが昨日メールを書いてきてくれました。「一緒に活動できてうれしかったです。靴下の配布がこれまでの旅の中で一番の思い出になりました。」

先週シンガポールに戻ったシューファングさんも心温まるメッセージを送ってくれました:

「日本に靴下を」を通じてユニークで充実した経験ができ、さらにみなさんからたくさんのことを学びました。いろいろとありがとうございました。

私は一日東京を歩き回りましたが、荒れ果てた女川の光景が何度も頭の中に浮かび上がりました。女川ではみなさんは寄付された服を着ていましたが、そこからたった7時間しか離れていない東京では、日曜の昼下がりにみなさんは素敵な服で着飾っていました。女川と東京の違いに直面して、私のシンガポールでの生活がどれほど恵まれているのかを考えさせられるきっかけになりました。

さらに東京と佐野の違いについても思いを巡らせました。佐野は美しく穏やかなところです。いつか佐野に戻って、東北の復興と発展を祝えたらと思っています。

私たちもその日を楽しみにしています。ジョーさんは米国カンザス州へ、そしてシューファングさんはシンガポールへ戻りました。スチュワートさんはマレーシアを旅行中です。「日本に靴下を 」の活動はまだまだ続きます。

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