先週の土曜日6月4日に、Socks for Japan は女川のはずれにある、津波の被害を受けた質素なオートバイショップで10万足目の靴下を配りました。
いつも通り朝3時の出発で一日が始まり、東北自動車道を通って被災地へと北上する途中、神秘的な日の出を見ました。今回私に同行したのは、ボランティアをずっと続けているるみこさんとさちよさん、それから遠隔からのボランティア、東京で仕事をしているオーストラリア出身のカーステンさんです。カーステンさんは、きさくで優しい人柄で、まるで大好きな叔母さんが同伴してくれているような気分にさせられました。
今日の世話役の、女川町議会副議長の宮本伸成さんにお会いしました。宮本さんは、3月11日に家族・友人を失い瓦礫と化してしまったこの小さな村落出身の上品な方です。小さい規模の避難所から次の避難所に移動している間、宮本さんは、1万人だった人口が9千人に減ってしまったと話してくれました。
宮本さんは、破壊された我が町を1,000枚以上カメラに収めたと言いました。壊滅現場を通り過ぎながら、私は、この惨状に見慣れましたかと、愚かな質問をしてしまいました。舌が噛まれてしかるべきなら、それは私の舌であり、まさしくその時です。いいえ、見慣れてはいません、見慣れることは決してありません、と宮本さんは答えました。宮本さんは女川を離れません。彼の生まれ故郷だからです。たとえ海に家族を失っても、海は宮本さんの生命だからです。
宮本さんは、町議会の生き残った議員らと一緒に8月までに復旧計画の草案を作成する取り組みをしています。その傍ら、被災者への救援活動の調整を手伝い、どんなに小さい奥まった避難所でも宮本さんなら知っています。おかげで、あまり人に知られていない小道のような車道の終わりにある山腹の避難所に辿り着くことができました。
繁華街の被害地帯より北方にある避難所は、約束はしても実際にやって来る人はほとんどいなかったように、驚きまじりで、宮本さんと私たちを迎えてくれました。次の写真で私の前に写っているすずきさんという若い女性に、靴下はいりませんかと尋ねました。すずきさんは「いります。毎日履き替えたいので」と答えました。その通りですね。
その避難所の中で、装飾用のリボンでアートフラワーを作るのを趣味としているいしもりすまえさんに会いました。いしもりさんの家は今回の震災で無事でした。それで苦闘している近辺の人たちにできることがないかを考えました。いしもりさんはありったけの高価なリボンを持って避難所を訪れ始めました。そこで1枚のアジサイの花びらの作り方をみんなに教えています。教室でたくさんの子供たちや避難所でたくさんの人に教えて、花びらの数はあっという間に集まり、大きなまん丸い頭花が部屋で咲き誇っています。みんなで一緒に作った作品をみんなに見てもらうためにそのままそこに飾っておきます。いしもりさんは、その経験がみんなの絆を強くするのだと話してくれました。でも、材料が底をつき、そのあたりでは手に入りません。リボンが底をついたことを知ったある医者団体がたくさんの材料補給を届けてくれることになっており、いしもりさんは使命を続行することができます。
真昼には、宮本さんの息子さんがオートバイショップとして使っている間に合わせの建物に到着しました。配った靴下の数を記録していますので、そこで10万足目の靴下を配ることが分かっていました。私たちは、特製バッグ、ポスター、そして、世界の異なる地域の異なる方々から贈られた、おまけのハンカチと犬のぬいぐるみ、それに手書きの励ましの手紙が添えられたその特別な靴下を、ワゴン車から取り出しました。
集まった人々に靴下を配り始めました。みなさんが親類を失い、家を、自動車を失いました。何ヶ月もの長引く悲しみと遅い復旧の中で、それでもなんとか明るさを持ち続けておられます。人前で見せる喜びは、多くの場合、厚く覆われた雲の切れ間のように一時的なことにすぎませんが、その儚さゆえ、ある意味ではより大切なことです。1人の女の人が言うように、ちょっとした「楽しいひと時」は、そんな被災者の方々にとって当然あってしかるべきなのです。
私の母校コロラド大学があるアメリカのコロラド州ボールダーから贈られた靴下1足と励ましの手紙を男の子に手渡して、私は大喜びでした。
9万9千9百99足目が被災者の手に渡されたとき、頭の中でベルが鳴り響きました。「皆さん、動かないでください!」私たちは叫びました。集った人々はピタッとその場に静止しました。「ただ今から、このオートバイショップで10万足目の靴下を宮本伸成さんにお渡しすることをお知らせします」靴下の授与式と記念撮影のためのスペースを設けるために、皆さんが並び直している間、1人の少年が友達に言いました。「そんなにたくさんの靴下がここで配られたわけないじゃん」その友達は答えました。「ばか、ここで全部配ったんじゃないよ。ほかでも配ってきたんだよ」
1枚目の写真でるみこさんが手にしている赤色のポスターは、現在私の事務所に貼ってあり、その日を思い出させます。ポスターを近くで見るとこんな感じです。
そして、その記念すべき瞬間が過ぎ去りました。大台にのることは一里塚的な意味があります。しかし、実際に、10万足目の靴下は、その1足前、あるいはその1足後の靴下とどう違いがあるのでしょうか?その瞬間は、私にとって、そして後になって、るみこさんも同じことを思っていたことを知ったのですが、例えば1万足の靴下を配ることで、意味のある影響を与えることができるのだろうかと心配した、震災後の最初の週末のことを思い出させました。 そんな量を私たちのような少数のボランティアの集まりで扱えるのだろうか、と思ったものです。私は、Socks for Japanを構成する人たちの献身を過小評価していました。被災者の皆さん、寄贈者の皆さん、靴下の仕分けに携わる方々、帯域幅を寄付していただいた方々、口コミ情報を提供してくれた方々、関心を持ってくれたリポーターの方々、この記念すべき瞬間をあなたに贈ります。
宮本さんとオートバイショップの一行と別れて、 津波の翌週に千人の遺体が岸に打ち上げられた牡鹿半島に南下して、整備工場で配りました。自動車をテーマとして配達計画を立てたわけではないのですが、たまたまそうなりました。主任整備工である店主が、私たちのちらしと名刺を工場のシャッターや他の被災者が集まる場所に貼って、靴下の配布を知らせていました。
店主は地面に青色の防水シートを敷いて待っていました。そして、みんな何もない状態で長い間過ごしてきたので、「山のように積まれた」中から自分の靴下を選ぶのを楽しむでしょうと提案しました。そうすることにしました。
美しい日に、美しい田園風景から、美しい雰囲気で、人々がポツリポツリやって来ました。しかし言うまでもなく、失われた家族への悲しみがあります。独り者がかつては夫婦だったこと、かつては大きな車に大勢乗せて運転していたこと、男の人が長年初めて自分で自分の靴下を選んでいること、だれでもそれが感じ取れます。私は男の人に足のサイズを尋ねました。その人は「ようわかりません。これまでは家内がそんなことを知っていたから」と答えました。その人が足を持ち上げたので、私たちは靴下を足に合わせました。このような言葉のやり取りに満ちた日々を通して、微笑みは絶えません。
るみこさんは、最初からのボランティアの1人で、仕分けセンターの責任者でもあります。るみこさんの持つ効率性と円滑な作業の流れに対するセンスなしでは、私たちは今日の記念すべき出来事を達成していなかったでしょう。そのくせ、牡鹿半島での配布場所で、るみこさんは、静かに座っています。いつものように被災者の方々と交わりませんでした。るみこさんは、大半は見守って、順調に進むように所々で手伝っています。でも愁いに沈んだ目にしっかりとその場面を焼き付けていました。
配布が終わり、靴下がなくなって、被災者の方々が日々を切り抜けている様々な場所に戻って行ったとき、るみこさんは、日差しの中をちょっと散歩してもよいかと尋ねました。もちろん、と私は答えました。残った者で片づけをして、整備工の店主と話をしていました。少し後で、るみこさんが、瓦礫の山がいまだ天日に焼かれ雨に浸される被害地帯の一番近い境界を見下ろすベンチに座っているのを見ました。
佐野市に戻った数日後、るみこさんは、10万足配布達成が何を意味するのかを自問したと話してくれました。「大台にのることは本当に重要なことでしょうか」と彼女は尋ねました。記念すべき出来事が50万足、あるいは100万足だったら、日本はもっと良い状態になっていたでしょうか、百足だったら今より悪くなっていたでしょうか?私も、長い運転の末、私が望んでいたほど靴下を受け取るのが嬉しそうでない人を見るとよくそのような思いに駆られます。
10万足の達成は、私たちが日本の助けになったことを意味するのかどうかへの答えはありません。私たちがいくらかの人たちの助けになったことを、私は知っています。その人たちが私たちに教えてくれるからです。世界中の人々は手を差し伸べてくれるほど本当に気に掛けてくれていることを、私は知っています。私はそれを、見て、触れて、手渡してきました。ほかのことはともかく、10万足を達成したことは、私たちが早々とやめなかったこと、私たちがまだやめていないこと、そして私たちに達成できることがどれだけ役に立つのであろうとも、達成するためにまだ取り組んでいること、を意味するのだと、私は知っています。
そして、それを実現可能にする人たちは、私が知っている最高の人たちだということを、私は知っています。