2011年4月6日
私たちはようやく今回の震災で最も大きな被害を受けた地域に足を踏み入れました。靴下の配達を重ねる度により損害が激しく、膨大な援助が必要な場所に行っています。そんな中いろいろな思いが交錯します。援助の手を差し伸べることはいいことだけど、これほどまで多大な支援が必要なところがあるということの辛さ。
私は先週水曜日 に、私たち三人は二日間の予定で宮城県亘理町と山元町へ出向き、4,000 足の靴下を届けるとお伝えしました。この二つの町はかなりの打撃を受けたところで、靴下と下着を緊急に配達してほしいと連絡があった場所です。当初の予定では木曜日から金曜日にかけて行くつもりでした。しかし亘理町での靴下の需要が想像以上に大きく、木曜日の段階で持って行ったすべての靴下を分配してしまったのです。私たちは駐車場にこっそり居座り、お互いを見合いながら、どうしたらいいか悩みました。すぐに栃木県佐野市の本部オフィスに戻り、同量の靴下を隣町の山元町へ持って行くことが可能なのか考えました。山元町の責任者の方に、靴下を全部亘理町で配布してしまったと電話でお伝えした時、その方に「みなさんを頼りにしていたのに」ととてもがっかりした口調で言われました。
そこで私たちは佐野市の「日本に靴下を」のボランティア本部に電話をし、どれだけ靴下の在庫があるのか確認をしました。最近の傾向として大量の靴下が一気に郵送されるケースが多いため、山元町の分も届いているだろうと推測しました。私たちのモットーは「不可能なことは何もない」。何が何でも山元町への靴下の配達を実現したいと誓いました。
話を先に進める前に、ここで木曜日の動きをおさらいします。佐野市の本部から亘理町と山元町まで東北自動車道を4時間かけて北上し、距離にして271キロ(168マイル)を走行しました。
亘理町の避難所はたいへん規模が大きく、すぐに靴下の需要が高いことに気付きました。被災者のみなさんは裸足、または穴の開いた靴下を履いていました。私たちが運んできた靴下と手紙は人気を博し、またたく間に底を突きました。
避難所の方々がしてくださった話はどれもが心を打たれるものでした。このおばあさんのお名前ははるこさんといって、自宅が崩壊したことを説明してくださった後、ちょっとした助言をいただきました。「周りがぐらぐら揺れて、物が落ちてきたり建物が粉々に崩れ落ちる状況でヘルメットが見つからない時は、分厚い本で頭を守ったらいいよ。柔らかい枕より断然役に立つよ」と。なるほど!はるこさんはしばらく話を続けた後、私たちのメンバーのたか子さんに靴下のお礼として食べ物を渡しました。
一つ一つの避難所の間の風景に目を向けると、そこには壊滅されたかつての住宅街がありました。避難所の方々がなぜ全く所持品を持っていないのかがわかります。みなさんは家も車も何もかもを失ったのです。
瓦礫の山の中に時々ちょっとした物が一つや二つ、私たちの注意を引くことがあります。それらはアルバムや写真だったり、銅像だったり子どもが描いた絵だったり、またはスリッパがくくられたお年寄り用の車椅子たっだりします。この日に目にした物の中で印象に残っているのは、何かの儀式の時に撮られたであろう二人の着物姿の女性の写真、誰かの台所にあったかもしれない醤油入れ、そして学生用の英語の辞書でした。
この着物姿の女性の写真と辺りの状況について、私の本職のニュースレター購読者の方々に日曜日にこう書き記しました。
海岸に辿り着く前にすでに海の臭いが充満しています。なぜなら海水が内陸に入り込み、その臭いが辺りに染み付いているからです。私が二人のボランティアとともに亘理町中心部の荒浜に近づくにつれて、辺りの風景が変わりはじめました。はじめは逆さまになった車やトラックや船が畑の真ん中にあり、その後には破壊された家々が続き、それから周辺の道路は瓦礫の山で覆い尽くされ、あまりにも損害が激しいため、ここから抜け道がないように感じられました。
何だか海が私たちをものみ込んでしまいそうな恐ろしい感覚に陥り、私たちが乗った大型車も私たちの足元もどろどろした沼地のような地面に吸い込まれそうに感じました。ここではたくさんの命が亡くなったのです。私たちは車を停め、それぞれ思うがままの方向へ歩きました。私は田んぼの角に立ち尽くし、山の方角を見つめました。遠くにクレーン車が瓦礫をトラックに運んでいて、その光景は子どもがおもちゃのクレーン車とトラックを使って海辺の砂をいじっているのと同じように見えました。あまりにも被害の規模が膨大なので、このような作業がとても小さく無意味のように思えて仕方がありませんでした。
ここで感じた悲しみが私をうつろにしました。私の口の中が乾き、頬の内側を噛んでは理由もなく小刻みに声を出しました。自分の足元を見てみると、そこには着物姿の二人の女性の写真がありました。きっと何かの儀式前に撮られた写真でしょう。私はその写真を見るためにしゃがみました。この女性たちは亡くなっているかもしれない。そして1995年の阪神大震災後に自殺率が上昇したことをふと思い出しました。何もかもなくし人生に失望し、自分の命を奪ってしまう人たちが多くいました。
私は立ち上がり、辺りの損害を見回しました。静けさがあまりにも痛々しく、そこで初めて自殺を思った人たちの気持ちがわかったように感じました。
私たちはその日のはじめから亘理町と山元町の二カ所に届ける靴下が足りないかもしれないと思いました。本部と再度連絡を取り、どれだけ在庫があるかを確認しました。
私たちは午後10時に亘理町での最後の靴下を手渡しました。それから次の日に山元町へ4,000足の靴下を届けるために佐野市にとんぼ返りしました。まっすぐ運転して帰るには疲れ過ぎていたので、途中で何度か車を停めて仮眠をとりました。実際に佐野市に戻ったのは朝の6時でした。
私たち三人は数時間の睡眠の後、靴下の受取オフィスに行き、在庫がどれだけあるか見に行きました。嬉しいことに、シンガポールのジンミン中学校から6,000足の靴下が届いていました。彼らから思いのほか早く靴下が着いていたので助かりました。この学校の教師責任者のダンカン・ヒュー先生から前もってメールをいただいていました。
私たちジンミン中学校では、第407学級と男子学生組織と学生リーダー委員会のボランティアたちがこのプロジェクトに参加しました。はじめに1,300足の靴下を収集し、さらに集められた募金で数千足の靴下を購入しました。合計6,262足の靴下を寄付いたします。
私たちのボランティアチームはすぐに4,108足の靴下をかき集め、山元町へ配達するために大型車に荷物を積みました。山元町の責任者の方に電話を入れ、土曜日に靴下を届けられるとお伝えた時、とても喜んでくださいました。
土曜の朝に山元町役場の前に駐車した時、辺りの被害の大きさを目の当たりにしました。私たちは被災地への靴下の配送を重ねる度に、震災の打撃がさらにひどいところに出向いていることに気付きました 。木曜日に目撃した亘理町の状況もとてつもなく痛々しかったのですが、山元町はそれをも超えていました。この小さな町では自衛隊と政府の救援活動が続いていて、農地の80パーセントが失われただけではなく、町の人口も激減したはずです。私たちはその日の計画を役場の対策本部で練りました。
私たちは早速靴下の荷下ろしをはじめました。最初の施設で気付いたのが、外に置いてあった洋服の寄付の箱の中に靴下が一足もなかったということです。
一カ所目の避難所で、二人の百歳のおばあさんに会いました。お二人は津波から逃れ、その内のお一人は避難所で誕生日を迎えたということで新聞に取り上げられました。
次の話は今まで聞いた話の中で一番悲しいものでした。この写真の右に写っているのはくみこさんで、彼女は家族の中でたった一人の生存者です。
彼女は泣き尽くされた目で私たちを見ながら、膝の上に拳を握りしめつつ、次のように話してくれました。
津波警報が聞こえた時、真っ先に頭をよぎったのが私の幼稚園児の娘のりえのことでした。私は急いで車で幼稚園に向かいました。この幼稚園は浜辺近くの駅のそばにあります。海岸線に近いところにあるということがわかっていたので、波の影響がすぐにあるであろうと思いました。問題はどの園児の母親も同じことを考えていたため、幼稚園までの道路が混み合ってしまいました。津波が一気に上昇し、先生たちや子どもたちが私たちの方向に向かって走って逃げているのが見えました。しかし悲痛にも海水がまたたく間に彼らをすっぽりのみ込んでしまいました。その後すぐに津波が私のいた車の列まで押し寄せ、私の車も波にのまれました。私は車から逃げ出すことができ助かりましたが、たくさんのお母さんたちが車内で溺れて亡くなったと思います。
その後避難所でりえの先生を見つけました。彼女の話を聞くと、先生は左手でりえの手を、右手で別の女の子の手を握りしめながら逃げました。一生懸命津波から遠ざかろうとしましたが、波が一気にみんなをのみ込み離れ離れになってしまいました。先生は水の勢いにのまれ自分が死んだのだと思いましたが、無事生き残りました。でも女の子たちは亡くなってしまいました。りえの遺体が学校から遠く離れた場所で見つかりました。私は娘と他の園児のための集団葬儀に出席しました。
りえは私の最初で最後の子どもです。もう子どもは欲しくありません。りえは私の愛娘でした。たった一人の娘でした。
その日の気分は彼女の話で凍てつき、私たちは言葉を失いました。その時手に持っていた靴下が至ってくだらなく、同封の手紙がばかばかしく無意味のように思えました。やっとの思いで「もっと何かお役に立てればいいのですが、いま私たちにできることは靴下をお渡しすることくらいです」と言葉を絞り出しました。その時くみこさんが幼い女の子用の靴下の袋を見つめていることに気付きました。どうして彼女の目が届かないところに置かなかったのかと悔やみました。亡くなったりえちゃんのために靴下をお渡しすべきか、でもその行為がくみこさんをさらに悲しませるのではと躊躇しました。私は「頑張ってください」とも「明日は今日よりいい一日になるでしょう」とも、そのような陳腐なことは決して言えないと思いました。時には何と声を掛けたらいいのか言葉がない時があり、そっと同情の念を伝えるだけしかできないことがあります。それから私たちはくみこさんがいた避難所を去り、海岸の方角へ足を運びました。偶然にも遠くに破壊された駅が見え、あの日くみこさんと他の母親たちが車を走らせた道のりを辿っていることに気付きました。その界隈の今の様子はこの通りです。
海岸へ向かう途中の風景:
自衛隊が遺体を探しているところ:
遺体をプラスチック袋に納めて運び出すところ:
線路の残骸:
残された駅を点検する男性たち:
これはくみこさんが話した通りの、駅の側の幼稚園の残骸。ミッキーとミニーマウスのサインが子どもたちに「走るな」と注意している:
言われていた通り、その幼稚園は駅のすぐ側にありました:
私たちは厳しい風に吹かれ、目に砂が入るのを我慢しながら、建物の土台の前に立ち尽くしました。ここでりえちゃんが山の方向に走っていって、ここで波にのまれて亡くなったのだろう。その瞬間は彼女の短い人生の中で一番恐ろしい出来事だったのかもしれません。この悲劇の中で慰めがあるとするならば、津波の勢いはもの凄かったのでりえちゃんや他の人たちの命を直ちに奪い、誰にも逃げ切るすべがなかったということだと思いはじめました。
もちろんりえちゃんは津波から走って逃げることができませんでした。私は浜辺から次の避難所へ向かう途中、もう一度山元町の海岸線を見つめながら思いました。小さな女の子だけではなく、誰がこのだだっ広い距離を津波から逃れるために走り切ることができただろうかと。
一人の男性が完全に破壊された平地へ歩いていることに気付きました。たくさんの人たちがかつての住処や近所に足を運び、瓦礫の中から少しでも残されたものを拾いにいっているのだと聞きました。
海辺の混沌たる場所から次の避難所まで間の静かな風景に心が洗われた気がしました。その間私たちの涙は乾き、被災者の方々に会う前に気持ちを明るくしようと気持ちを切り替えました。みなさんは靴下と手紙をたいへん喜んでくれ、私たちも彼らの喜びようにいたく励まされました。
下のこれらの写真に写っている女の子は、手渡された黄色と白のふわふわした靴下に興奮して喜んでくれました。彼女はその靴下を履きながら、「黄色と白は私の一番好きな色なの。とても温かいわ」と言いました。彼女は同封された手紙の一部を自分のお母さんと一緒に読み、私は二人のやり取りを見ながら、この母親は娘が生き残って自分の腕の中にいることに毎晩喜びの涙を流し、あの金曜日の昼にたくさんの人たちが命を落とした中、天の神様に感謝しているのだろうと思いました。私はこの母親に「あなたの最も大切な宝物が生き残って良かったですね」と言い、彼女は「娘は空気より尊いです」と返答しました。
その夜山元町で一万足目の靴下が配られました。下の写真に写っているどなたかがその靴下を受け取ったはずです。
その夜に行った最後の避難所のボランティア団体が、私たちが靴下を配達した後に夕食を提供してくださいました。この段階で私はお腹を空かしきっていました。避難所でボランティアをしている男性たちのほとんどが家をなくし、家族や友達をもなくされた方も少なくありませんでした。そんな彼らがその晩の靴下の配達が笑いと笑顔をもたらしたと言ってくれました。写真の右側に写っている強そうな男性が写真の真ん中に写っている男性に、「お前はさっきまで落ち込んでいたけどな。。。。まあ、どうでもいいけどね」と一言声を掛けました。
その強そうな男性が夕食の時に私の隣りに座りました。彼に笑うことを自粛した方がいいのかと質問しました。彼は「そんなことないよ。他にもいろいろな感情や反応があるけど、笑うのが一番なんだよね。言ってること、わかるかな?」と問いかけました。その瞬間彼の言っていることがわかりはじめた気がしました。
帰りの道中にまた何度も道路の脇で仮眠をとり、佐野市に戻った時には午前6時をまわっていました。眠たく意識が朦朧としている中運転を続けました。その間「日本に靴下を」がどれだけのたくさんの人たちに支えられているのかと思いを巡らせました。何千人もの人たちが靴下を選び、手紙を書き、そして私たちがそれらの靴下と手紙を被災者のみなさんに渡し、彼らが次から次と靴下と手紙を受け取ってきました。しかし、家族や友人をなくした生存者の方たちのことを思うと心が痛みます。それが生き延びた者の重荷なのかもしれません。私のような直接被害を受けなかった人間がこれほどまで心痛な思いをしている間、くみこさんのような方たちがどれほど苦しんでいるかを想像するだけで息苦しくなります。
私たちはこれからもあきらめず前に進んでいかなくてはなりません。これが生き延びた人間の責務なのでしょう。この下の写真の風景はりえちゃんが最後の一歩を踏んだ場所かもしれませんが、いつかまた別の子どもがここで遊ぶ日がやってくるに違いありません。
2 Comments
JASON KERRY様
宮城県山元町にご支援いただきましてありがとうございます。
私の実家が文中の幼稚園の西100Mにあります。
娘さんを亡くされたくみこさんは実家の家族と避難所で同じフロアでした。
ひとりぼっちではなく、歩くのが少し不自由なおじいちゃん(お父さん)と一緒でした。
また、幼稚園の場所も全然違います。
建物はきちんと残ってるので絵的に涙を誘う構図にはなっていませんが、いくつものメディアには出ているので虚偽のレポートは止めた方が良いと思います。
ですが、こうして取り上げていただいたこと、ご支援いただいたことは本当にありがたいです。
避難所でくみこさんのことは聞いてました。
私の家族は無事だったため、話す勇気もありませんでした。
祖母に私の子ども達を見舞いに連れて行った時、彼女はずっとフロアの外にいて室内に入ろうとしませんでした。
痛々しかったけど高齢の祖母にとってひ孫達の顔を見るのは何よりの薬なのでそうせざるを得ませんでした。
実家の片付けのため帰省するたび、幼稚園に足を運んで手を合わせています。
私も子どもの頃に通った園です。
家にいると子ども達の元気な声、運動会の鼓笛隊の音などがいつも聞こえてにぎやかでした。
災害への認識が甘かったと先生方を悪者にする人もいますが、私が子どもの頃から働いていたり、小学校の恩師の娘さんが働いている、つまりは誰かが誰かの知り合いになっている、小さな町の幼稚園です。
津波さえなければ非難される理由のない、良い先生方ばかりです。
幼稚園は夏休み明けに内陸部の廃校を借りて再始動するそうです。
海なし県から東北の被災地への支援、気分のいいものではなかったと思います。
海の近くで育った私でさえ、初めて被災地に行った時は怖かったです。
私は宇都宮から月に3回は帰省しており、運転にはだいぶ慣れましたが、佐野から各被災地まで行き帰りも含め大変だったと思います。
山元はあと数日ですべての避難所を閉鎖し、避難者は仮設住宅や補修した自宅へ戻ります。
全て元通りになるのは何年も先になりますが、一つ一つ元の暮らしになるのも生きる活力になります。
ご家族を亡くされたかたはまた違うかも知れませんが…。
最後に、このメールは軽く流していただいて構いません。
私のメールアドレスはPCメールを受け付けませんのでお返事いただいても届きませんのでご了承下さい。
最後に、山元、亘理は県内のいちごの産地ですが、45年ほど前までは農家が栃木までいちご苗を買いに出掛けました。
祖母は佐野辺りにも行ったとのことです。
今回災害支援で再びお世話になり、ありがたい気持ちでいっぱいです。
また暑くなるようですのでお体にお気をつけてお過ごしください。
青山様
貴重なご意見ならびにご指摘ありがとうございます。
Socks for Japanの大谷と申します。
くみこさんの記事は当日ご本人ならびに周りの方達のお話から書き上げたものでした。後日山元町再来の際に再度調べました結果、幼稚園の場所が違うことが分かり、実際の場所へ出向き、園長先生ともお会いしお話しさせて頂く事も出来ました。
青山様のおっしゃるとおりにとても熱心で優しい先生で、子供達のため園再開に向け辛い中頑張っていらっしゃいました。
訂正はそのレポートの中でする予定だったのですが、いまだ出来上がっておらずにそのままになっておりました。本当に申し訳ございませんでした。
山元町には震災後、宮城県の中でも一番に行った場所でソックスフォージャパンにとってとても思いのある町です。『避難所では皆が家や家族を無くし辛い思いをしてるのは一緒なので、ここで泣いたり弱音を吐くことは出来ないんですよ。』と言われ気丈に振舞われている姿を見るのが辛かったです。 そして、たくさんの方達が私たちにいろんなお話をして頂く事の意味がよく分かりました。私たち部外者に話すことにより悲しさ、現実をご自身で受け止めていらっしゃるんだなと。
私たちは7月まで計32回被災地に出向くことが出来ました。山元町にも3回行き、最初は避難所を回り、2回目の訪問では学校、保育園などで子供達とふれあい、そして7月には仮設住宅を回らせていただきました。 何度も行くうちに私たちの事を覚えてくれている方たちとも再会し、少しずつ復興に向け前進していかれている姿を見ることも出来きました。
青山様も長距離の運転、そして故郷の復興のお手伝い大変だと思いますので、お体をお大事に。そして御祖母様もいちごを作られていたのでしょうか?私たちもいちご農家の方達にはたくさんお会いしました。皆さん山元、亘理のいちごに誇りを持っていらっしゃいました。
これからもとても大変な長い道のりになることと思いますが、私たちスタッフ一同そして支援をしてくれた世界中の多くの仲間も心より被災地の復興、そして何より、皆さまが少しでも早く心安らぐ時が来る事をことを祈っております。